เข้าสู่ระบบ午前九時を回る少し前、燈城会本邸の会議室には、昨夜捕らえた襲撃者についての資料が並べられていた。玲は濃紺のスーツに着替え、凌臣の右後ろへいつもの位置を取っている。夜明け前に凌臣の寝室を出てから一度自室へ戻り、短いシャワーを浴び、暗号端末の記録を消し、何事もなかった顔で朝の会議へ出た。眠気はあるが表へは出さない。四年間、こういう朝を何度繰り返したか、もう数える気にもならなかった。
「店へ入ったのは三日前です。採用時に提出された身分証は偽造でしたが、元になった戸籍自体は実在しています」
玲は資料へ視線を落としながら報告した。昨夜のうちに店側の採用記録、防犯カメラ、電話履歴を突き合わせ、男が誰と接触していたかを洗っている。斑鳩井朔が向かいから追加の書類を滑らせると、玲は受け取った瞬間にざっと目を通し、数秒後にはページを閉じた。
「厨房担当の一人が金を受け取っています。金額は百八十万。本人はただの紹介料だと言っていますが、送金元の名義が二日前に消えています。昨夜の男と同じ系統でしょう」
「始末するか」
凌臣が煙草へ火をつけながら言った。玲は僅かに顔を上げ、いつもの無表情のまま答える。
「今は泳がせる方が有益かと。こちらが気づいていないと思わせれば、次の接触先が出る可能性があります」
「好きにしろ」
「承知しました」
会議は一時間ほどで終わった。幹部たちが順に立ち上がるなか、玲は資料をまとめ、腕時計へ目を落とした。午後一時から東京大学で講義がある。移動時間を考えれば、ここを十一時半には出たい。凌臣はその視線を見逃さず、灰皿へ煙草を押しつけた。
「大学か」
「はい。午後から講義がありますので」
「昨日撃たれかけた翌日にか」
「僕が撃たれたわけではありません」
「似たようなもんだろ」
「全然違います」
玲は淡々と返したが、凌臣は面白くなさそうに鼻を鳴らした。止められる理由はないと判断したのか、それ以上は何も言わない。玲も余計な説明はせず、会議室を出た。
本邸の廊下を歩く間、玲の表情はまだ燈城会の組長補佐《玻名城澪》のものだった。声を掛けてきた組員には必要なことだけ返し、昨夜の件を興奮気味に尋ねる若手へも「仕事へ戻ってください」と静かに告げる。笑わない。歩幅も一定で、背筋は真っ直ぐ伸びている。その姿を見れば、夜明け前までほとんど眠っていなかったとは誰も思わないだろう。
車へ乗り込んでからも、しばらく玲は窓の外を眺めていた。本邸から大学までの道筋は頭へ入っている。尾行の有無を確認し、運転手の癖を何気なく見て、信号待ちのたびに周囲の車両番号まで記憶する。そうした警戒が完全に不要になることはない。だが大学の最寄り駅が近づいた頃、玲はゆっくりとネクタイを締め直し、ジャケットの襟を整えた。
鏡代わりの窓へ映る自分の顔を見て、口元を少しだけ緩める。目元から鋭さを抜き、肩の力を落とし、相手へ圧を与えない程度に視線を柔らかくする。演技と言えば演技だったが、この顔だけは嫌いではない。むしろ四年間のうち、自分が呼吸をしやすい数少ない時間に近かった。
東京大学のキャンパスへ入る頃には、彼はもう別人だった。
「先生、おはようございます」
研究棟の入口で声を掛けてきた学生へ、玲は立ち止まって笑った。
「おはよう。今日は早いね」
「レポートが終わらなくて」
「それは早いんじゃなくて、寝てない顔だね。提出前に倒れないでよ」
学生が苦笑すると、玲も柔らかく笑う。燈城会で彼が見せる無表情を知る者がここにいれば、同一人物だと信じるまで時間がかかるだろう。声の高さまで僅かに変わり、冷たさを消した穏やかな響きになっている。
講義室へ入ると、既に半分以上の席が埋まっていた。今日扱うのは確率過程と最適化を組み合わせた応用問題で、学部生には少し重い。玲は教卓へ資料を置き、教室全体を一度見渡した。前方には熱心に準備をしている学生、中央には友人同士で話している学生、後方には眠そうな者が二人いる。誰がどこへ座ったかを意識して覚える必要はない。目に入れば、それで残る。
「じゃあ始めようか。今日は前半で少し式が長くなるから、途中で分からなくなったら止めてね」
玲は右手でチョークを持ち、黒板へ向かった。左手は自然に背後の腰へ添えられる。本人にはほとんど自覚のない癖で、姿勢が崩れないまま右腕だけが滑らかに動く。最初の式を書き終えると、そのままチョークを左手へ持ち替え、今度は右手を腰へ回した。
前列の学生が小さく息を呑む音が聞こえた。玲は振り返らないまま口元だけを緩める。
「まだ珍しい?」
「いや、何回見ても変です」
「変って言わないでよ。便利なんだから」
教室に笑いが起こった。玲も軽く笑い、左手でそのまま式を書き進める。左右どちらでも文字の形はほとんど変わらない。長い数式を途中で持ち替えても速度は落ちず、本人にとってはペンを置く位置を変える程度の感覚しかなかった。
説明を続けながら、玲は黒板の反射に映る教室を見ていた。直接振り返らなくても、後方の動きはある程度分かる。開始から十五分ほど経ったところで、最後列の一人の手が止まった。最初は黒板を見ていた視線がノートへ落ち、次に隣の学生のページへ移る。ペン先だけが紙の上で止まり、追いつこうとしているのに、どこから分からなくなったのか本人も整理できていない様子だった。
玲はそこでチョークを止めた。
「ごめん。今、二行飛ばしたね」
教室の後方で、その学生が驚いたように顔を上げた。玲は黒板へ向いたまま一つ前の式へ線を引き、余白へ途中計算を書き足す。
「ここ、分かりにくかったでしょう。僕の頭の中では繋がってたけど、書かないと急に見えるね」
「え、あ……はい」
「だよね。ごめん。ここからやり直そう」
玲は式を一段ずつ崩していった。抽象的な記号だけでは掴みにくいと判断し、簡単な例へ置き換える。確率の流れをカードの引き方に例え、条件が変わるたびにどの値がどう動くかを図にする。途中で質問が出れば止まり、別の学生の表情まで確認してから先へ進んだ。
黒板へ向かいながらでも、誰が理解できていて、誰が置いていかれそうかは分かる。頷きの速度、目線、ノートを取る手の動き、隣を見る回数。燈城会では人間の嘘や武器を見抜くために使っている観察が、ここでは学生が困っていることを拾うために使われている。その違いを玲自身が意識することはあまりない。ただ、こちらの方がずっと気が楽だった。
講義終了の時刻になり、玲がチョークの粉を払いながら「今日はここまで」と告げると、教室の空気が緩んだ。学生たちは一斉に立ち上がるが、すぐには帰らない者が何人もいる。玲は教卓で資料を片づけながら、最後列で手を止めていた学生を目で探した。
「さっきのところ、大丈夫?」
呼ばれた学生は、自分のことだと思っていなかったらしく周囲を見回した。
「君。途中で止まってたでしょう」
「分かりました。でも、最後の変形だけまだちょっと……」
「じゃあ見ようか」
玲は教卓脇の椅子を引き、学生のノートを受け取った。書き方を見るだけで、どこまで理解してどこから迷ったのかが分かる。途中式を一つ指で示し、「ここで変数の扱いが入れ替わってる」と説明すると、学生は困ったように眉を寄せた。
「すみません、そこがどうしても」
「謝らなくていいよ。僕の説明が一回で全部通じる方がおかしいから」
玲は新しい紙を取り出し、今度は数式ではなく簡単な図を書いた。学生が首を傾げれば別の例を出し、それでも駄目なら言葉の順番を変える。十五分、二十分と時間が過ぎても急かさない。やがて学生の目が明るくなり、自分の手で式を最後まで繋げた瞬間、玲は本人以上に満足そうに笑った。
「そう。それで合ってる」
「分かりました。やっと」
「よかった。じゃあ次に似た形が出てもたぶん大丈夫」
学生が何度も頭を下げる。その後ろには、いつの間にか男女合わせて七、八人が待っていた。教科書やノートを持っている者もいれば、小さな紙袋を持っている者もいる。玲は列を見て少し驚いた。
「今日は質問多いな」
本気でそう思って口にすると、前にいた女子学生が妙な顔をした。
「先生、それ全部質問だと思ってます?」
「違うの?」
「……いえ、もういいです」
玲には意味が分からない。次の学生は研究室選びについて相談したいと言い、その次はレポートを見てほしいと言う。三人目の男子学生は「これ、よかったら」と菓子の袋を差し出したので、玲は少し考えてから受け取った。
「ありがとう。何か質問あった?」
「いや、それは別に……」
「じゃあ何で?」
男子学生は耳を赤くし、「いつも世話になってるからです」とだけ言った。玲は納得して「気を遣わなくていいのに」と笑う。その後ろで女子学生が小さく吹き出したが、理由はやはり分からなかった。
結局、講義室を出られたのは予定より一時間近く後だった。研究棟の廊下を歩きながらも二人に捕まり、片方には進路相談、もう片方には試験範囲の質問をされた。玲は面倒がらず立ち止まり、一人ずつ話を聞く。自分が教えられることなら教えるし、専門外なら適切な教員を紹介する。それだけのことだと思っている。
夕方、大学を出る頃には空が薄く群青へ変わっていた。車の後部座席へ乗り込んだ玲は、学生から貰った菓子袋を膝へ置き、ふっと息を吐く。キャンパスの門が遠ざかるにつれて、口元から笑みが消えていった。柔らかかった目元が静かに冷え、肩も元の位置へ戻る。
運転手が何か話しかけることはない。本邸へ着くまでに、玻名城澪は再び燈城会の組長補佐へ戻っていた。
夜の会議を終え、玲が執務室へ資料を届けると、凌臣はソファへ深く腰を下ろして酒を飲んでいた。机には灰皿とウイスキーのボトルがあり、室内には煙草の匂いが濃く残っている。玲は資料を置き、「明日の予定です」とだけ告げた。
凌臣は紙へ目を落とさず、玲の顔を見た。
「大学、楽しいか」
唐突な問いだった。玲は僅かに間を置いたが、すぐいつもの表情へ戻る。
「仕事ですので」
「学生に随分笑ってんじゃねぇか」
玲の足が止まった。灰紫の瞳が凌臣へ向き、ほんの少しだけ警戒が混じる。
「見たんですか?」
「写真が回ってきた」
「誰からです?」
「護衛」
玲は眉を寄せた。大学へは目立つ護衛を付けない約束だったが、完全に監視されていないとは思っていない。それでも講義中の写真まで回っているとは知らなかった。
「大学では普通に笑いますよ。講師がずっと無表情だったら学生が質問しにくいでしょう」
「俺の前じゃ笑わねぇくせに」
玲は思わず凌臣を見返した。声音は低く、機嫌も良くない。だが何に怒っているのかが分からない。
「組で笑う必要があります?」
「そういう話じゃねぇ」
「では、どういう話ですか」
凌臣は答えなかった。グラスを傾け、琥珀色の酒を一息に飲む。玲は数秒待ったものの説明が続かないため、本当に分からないまま首を僅かに傾げた。
その仕草を見た凌臣の眉間へ、さらに深い皺が寄る。玲には、なぜそれで機嫌が悪くなるのか理解できない。大学で学生へ笑うことと、燈城会で仕事をすることは別だ。どちらも玻名城澪という人間を維持するために必要で、そこへ感情を持ち込む理由などないはずだった。
「明日も大学か」
「午前は東京科学大学です。午後はこちらへ戻ります」
「また笑うのか」
「たぶん」
玲が真面目に答えると、凌臣は舌打ちした。机上の煙草へ手を伸ばし、火をつけながら視線を逸らす。まるで自分でも何に腹を立てているのか決めかねているような沈黙だった。
玲はしばらくその横顔を見ていたが、結局答えには辿り着かなかった。だから資料だけを整え、「失礼します」と頭を下げて執務室を出る。扉が閉じる直前、背後でグラスが卓へ少し強く置かれる音がした。
廊下へ出た玲は一度だけ振り返り、閉じた扉を見た。学生へ笑った程度でなぜ凌臣があれほど不機嫌になるのか、考えても合理的な理由が出てこない。数秒後にはその疑問を頭の隅へ追いやり、明日の講義内容と燈城会の予定を同時に組み直しながら歩き出した。
執務室の中では、玲が置いていった資料の横に、一枚の写真が伏せられていた。講義室の黒板前で、学生へ向かって柔らかく笑う玻名城澪。その顔を凌臣がもう一度表へ返したことを、玲は知らなかった。
敵対組織の男が息を引き取ってから、倉庫の中は妙に静かになっていた。湾岸の外れに建つ古い物流倉庫は、潮と油と錆びた鉄の匂いが混じり、天井近くを走る蛍光灯が不規則に明滅している。床には尋問に使われた椅子が倒れ、その数メートル先には灰色のシートを掛けられた遺体が横たわっていた。血はもう広がっていないが、コンクリートへ染み込んだ暗い色だけが生々しく残っている。玲はその横でしゃがみ込み、回収された携帯電話、折れたSIMカード、財布、鍵束を種類ごとに透明袋へ分けていた。死んだ男は、燈城会と対立する新興組織《玖堂連合》の構成員だと名乗っていた。数日前から燈城会内部の運搬経路が外へ漏れ、倉庫2か所が警察より先に何者かへ荒らされている。凌臣はその情報源を探すため男を捕らえたが、尋問の途中で容体が急変し、そのまま死亡した。誰かが口封じ用の薬物を事前に使っていた可能性もあり、玲は死因については勝手に決めつけず、死体と所持品を別々の情報として扱っていた。「舌噛んだとかじゃねぇんだろうな」離れたところで凌臣が低く言った。煙草を吸う速度が普段より明らかに速く、灰皿代わりの空き缶には既に数本の吸い殻が詰まっている。男が吐いた内容の中には、燈城会内部に協力者がいるという話が含まれていた。名前までは出なかったが、凌臣が知らないところで自分の組織が動かされているという事実だけで、彼の苛立ちには十分だった。「可能性は低いです。口腔内の出血量と歯列を見る限り、自傷による致死ではありません」玲は袋へ封をしながら答えた。公の場に近い状況なので一人称は出していないが、周囲にいるのは凌臣と斑鳩井朔、それに後処理を担当する数人だけだ。玲の声はいつも通り静かだった。「薬か」「まだ分かりません。吐瀉物と血液は採ってあります。持病の可能性も切れませんし、拘束前に何か摂取していた可能性もあります」凌臣は舌打ちし、近くの折り畳み机を蹴った。金属脚が床を擦り、大きな音が倉庫内へ響く。若い組員が一瞬肩を強張らせたが、玲は顔も上げなかった。凌臣が怒っている時、物が飛ぶ程度は珍しくない。今の蹴り方なら人間へ向けてはいないと判断できるため、警戒を1段階上げる必要もなかった。玲は財布の中身を確認した。運転免許証は玖堂連合が用意した偽名らしく、顔写真だけは本人と一致している。現金は8万3000円、ホテルのカードキーが1
凌臣の機嫌が悪くなった理由を、玲は前夜からほぼ把握していた。燈城会と長く付き合いのある地方組織の幹部が本邸を訪れ、帰り際、廊下ですれ違った玲へ必要以上に近づいたのだ。相手は40代のαで、酒が入っていたとはいえ足取りは確かだったから、距離感を誤ったわけではない。玲の肩へ腕を回そうとし、避けられると面白がるように笑い、今度は青墨色の髪へ指を伸ばした。「相変わらず綺麗だな、澪。絹笠のところに置いとくのが勿体ねえ」玲は触れられる直前に半歩だけ身体をずらした。相手の手を折るほどの場面ではないと判断し、表情も変えずに「お酒が過ぎていますよ」と返そうとしたところで、背後から重い足音が近づいた。振り向く必要はない。焦がした檜と煙草の匂いで誰か分かった。「何してる」凌臣の声は低く、怒鳴ってはいなかった。それでも男の手が止まり、廊下にいた組員たちまで自然に口を閉じた。凌臣は玲の背後まで来ると、男が伸ばしていた手首を掴み、ゆっくり自分の方へ引いた。「いや、冗談ですよ。減るもんじゃないでしょう」「俺のもんに勝手に触んな」「まだ触ってませんよ、組長」玲が淡々と訂正すると、凌臣が横から睨んだ。「お前は黙ってろ」「事実を申し上げただけです」相手の幹部は場を収めるように笑ったものの、凌臣は最後まで笑わなかった。取引相手でなければその場で腕の1本くらい折っていたかもしれない。玲はそう判断し、問題を広げないために相手を玄関まで送り、そのまま残りの仕事へ戻った。ただし、凌臣の不機嫌だけは夜になっても消えなかった。そして翌朝、玲が寝室へ呼ばれた時、机上に置かれた小さな黒いケースを見た瞬間、昨夜から続いていた機嫌の悪さと今日の命令が繋がった。凌臣はベッド脇のソファへ深く座り、朝から煙草を吸っている。窓は少しだけ開いていたが、部屋には煙と強いαの匂いが残っていた。玲は扉を閉め、ケースへ近づいて中を確認すると、凌臣を見た。「今日ですか」「ああ」中に入っているのは、遠隔操作で作動する小型の器具だった。過去にも似たものを使われたことがあるため、用途を聞く必要はない。問題は予定だ。「午前中、直系幹部を集めた資金会議ですよ」「知ってる」「午後は海外法人の責任者も来ます」「それも知ってる」玲は数秒、凌臣の顔を見た。男は悪びれもしなければ、説明する気もない。だから玲も遠慮なく言
賭場の時計が午前3時を回っても、卓を囲む者たちに眠気は見えなかった。照明は入場時から1度も明るさを変えず、窓のない地下区画では外が夜なのか朝なのかすら分からない。玲は革張りの椅子へ浅く腰掛け、卓上へ積まれた権利プレートと、新たに封を切られたカードを静かに眺めていた。数時間前まで300億円、さらに600億円相当を動かした勝負が続いていたにもかかわらず、空気はむしろ最初より研ぎ澄まされている。向かいのシュタイナーは、負けが込んでいる人間とは思えないほど機嫌が良かった。苛立ちを隠しているのではなく、玲という未知の相手を解析することそのものを楽しんでいるらしい。さきほどから勝負よりも玲の手元を見る時間が長く、視線は右手の指先、カードの持ち方、チップ代わりの権利証へ触れる順序を追っている。玲は気づいていたが、わざわざ教える理由もないので、何も知らない顔で右手だけを使い続けた。「今度は君が配れ」シュタイナーがそう言って、専属ディーラーへ手を上げた。ディーラーは1歩下がり、封を切ったばかりのデッキを玲の前へ置く。玲はカードケースの封印番号と縁の加工を1度だけ確認し、右手でデッキを持ち上げた。「俺がですか」「嫌なら断ってもいい」「別に構いません。ただ、不正を疑われるのは面倒ですね」「この卓は全方位から撮っている。君が細工できるなら、それも見てみたい」玲は肩を軽く竦め、リフルシャッフルを始めた。左右の束をほぼ同じ枚数へ分け、親指の圧を均等に掛けて噛み合わせ、最後にカットする。カードは一定の音を立てて卓上へ滑り、誰の前にも同じ距離で止まった。凌臣は玲の横で煙草を咥えたまま、その手元よりもシュタイナーの顔を見ている。最初の3ゲーム、玲は意図的に右手しか使わなかった。カードを配る時も、自分の手札を確認する時も、権利プレートを動かす時も右側で統一する。シュタイナーの視線が自然とそこへ寄り、カードを見るより玲の親指と人差し指の間を追う時間が増えていく。どちらが利き手なのか、強い札を持った時に指へ何か出るのか、探していることは明白だった。4ゲーム目、玲は何の前触れもなくデッキを左手へ持ち替えた。右手を卓の端へ置き、左だけで同じようにシャッフルし、そのままカードを配る。速度も精度も変わらず、配札位置の誤差すらほとんどない。シュタイナーの眉が僅かに動いた。「左利きなのか」「
賭場には、現金を積み上げた華やかさがなかった。都内湾岸部の外資系ホテル、その最上階からさらに専用エレベーターで下った地下区画には、看板も受付表示もなく、黒い扉の前に立つ警備員だけが入場者の資格を確認していた。玲は凌臣の半歩後ろを歩きながら、廊下の監視カメラの位置、警備員の利き手、腰の膨らみから推測できる携行武器まで順に記憶していく。ここを運営しているのは燈城会と長く取引のある欧州系物流企業だったが、裏では金融、海運、武器、薬物の仲介まで扱っており、賭場も単なる娯楽施設ではなかった。入場時に渡された黒革のケースを開くと、中には通常のチップではなく、権利証を電子化した薄型プレートが並んでいた。現金だけではない。上場企業株式、非上場会社の持分、社債、港湾倉庫の優先使用権、貨物船の所有権、投資ファンドの受益権まで、法的な名義移転を可能にする書類が事前に信託会社へ預けられている。勝負が確定すれば、翌営業日にそれらが動く仕組みだった。玲はケースを見下ろしながら、軽く眉を上げた。「趣味が悪いですね」隣を歩く凌臣が煙草を咥えたまま横目を寄越す。「賭場で善趣味求めんな」「現金だけならまだ分かりますけど、港の倉庫まで賭ける人間の気が知れません」「お前がそれ言うか?」「俺はまだ何も賭けてませんよ」周囲には日本語を理解する者が少なく、さらに凌臣と玲の座席周辺には専属警備以外ほとんど人が寄らない。玲も人前で使う《玻名城澪》の「僕」ではなく、自然に「俺」へ戻っていた。潜入先でありながら、凌臣と2人きりに近い状況では、この切り替えがいつしか当たり前になっている。玲自身、それがいつから始まったのか正確には覚えていなかった。今夜の目的は賭博そのものではなかった。燈城会が東南アジアで共同利用している海運ルートについて、取引相手のヴァルター・シュタイナーと条件を更新する必要があり、その交渉場所として相手側が賭場を指定してきたのだ。シュタイナーは60歳前後の大柄なβで、表向きは物流企業の会長だが、港湾労組、保険会社、複数国の税関関係者へ強い影響力を持つ。凌臣とは10年以上の付き合いがあり、互いに信用しすぎない程度には相手を知っていた。「新しい倉庫使用料は18%上げる」シュタイナーがカードを配らせながら告げた。卓上では既に数億円相当の権利が動いているが、凌臣の顔色は変わらない。煙草
廊下の向こうで、凌臣の足が止まった。玲はその瞬間、自分の身体から何かが漏れたのだと悟った。燈城会本邸の午後は来客も多く、廊下には組員が数人行き交っている。誰も振り返らない。傍を通った若い組員も、資料を抱えた事務方も、何の異変も感じていない顔をしていた。それなのに20メートル近く離れた場所にいた凌臣だけが、煙草を口元へ運びかけた姿勢のまま動きを止めている。玲は腕時計へ視線を落とした。予定日まではまだ2日ある。今朝も高濃度の抑制薬を服用し、昼には追加の遮断剤も使った。熱もない。手の震えもない。心拍も普段とほとんど変わらない。それでも、身体の内側には数時間前から微かな重さがあり、薬で押し込めたはずのΩ特有の感覚が薄い膜の向こうで蠢いていた。「澪」低い声が廊下を渡った。「はい、組長」玲はすぐに顔を上げた。公の場で使う声と表情を崩さない。凌臣は周囲へ何も説明せず、指に挟んだ煙草を灰皿へ押しつけると、顎だけで奥の部屋を示した。「来い」「承知しました」玲が歩き出すと、組員たちは誰も不思議そうな顔をしなかった。組長が澪を呼びつけることなど日常の一部だ。だが玲にとって、その数歩は妙に長く感じられた。凌臣へ近づくほど、ほとんど消していたはずの匂いが鮮明になる。焦がした檜、血を思わせる乾いた鉄、熱を持った樹脂。4年前から変わらない、玲の神経を理屈ごと乱すαの匂いだった。最初にそれを嗅いだ日のことを、玲は今でも細部まで覚えている。4年前、まだ《玻名城澪》という名前が燈城会の誰にも馴染んでいなかった頃、玲は本邸ではなく都内の会員制ホテルへ呼ばれていた。警察庁が何年もかけて作った身分は既に完成していた。大学で研究と講義を続ける若い学術畑の男。資産管理と数字に強く、裏社会との接点は薄いが、ある企業の粉飾を見抜いたことで燈城会側の関係者へ接触したという筋書き。戸籍も学歴も納税記録も研究実績も、調べられる限り破綻しないよう積み上げてある。それでも、絹笠凌臣本人の前へ立つ瞬間だけは別だった。日本最大の極道組織を率いる男は、部下から上がった書類だけで人を信用するほど甘くない。玲はホテルの個室へ案内されるまでに、廊下の防犯カメラ4台、非常口2か所、警備役と思われる男7人の配置を記憶していた。もし身元を疑われ、その場で拘束された場合に使える脱出経路も3つ考えていた。扉が開く。ま
男が帽子を脱いだ瞬間、玲はその裏地へ1度だけ目をやった。燈城会本邸の応接間には、午後の薄い光が障子越しに差し込み、黒檀の卓へ淡い影を落としている。向かいに座った男は、自らを欧州系慈善財団《アルベリオ財団》の日本代理人、クラウス・ベルンハルトと名乗った。年齢は50代半ばほど、濃紺のスーツに絹のネクタイ、腕には古いパテック・フィリップらしき時計を巻いている。髪は銀色を丁寧に撫でつけ、物腰も穏やかで、少なくとも表面だけを見れば長く上流階級に身を置いてきた人物に見えた。凌臣は男の経歴を質問しなかった。既に下調べはしているはずなのに、あえて確かめることもせず、煙草を指に挟んだまま相手の話を聞いている。その右後ろに立つ玲にも、何も指示を出さない。ただそこに置いているだけだった。それがむしろ玲には分かりやすい。見ろ、ということだ。玲はこの役目を説明されたことがない。最初の頃こそ「何か分かったら言え」と命じられたが、今では凌臣が会談相手を玲の視界へ入れるだけで十分になっていた。相手がどの手で名刺を出すか、椅子へ座る時にどちらの脚を庇うか、身につけた品が本人の経歴と矛盾しないかを、玲は会話と同時に拾っていく。凌臣も途中で横顔を確認することはあっても、会談の最中に答えを求めない。玲が本当に危険を察した時だけ先に動くことを、4年の間に覚えていた。男は日本国内での医療支援事業を拡大するため、燈城会傘下の物流網を使いたいのだと説明した。財団は3代にわたり欧州の資産家一族が運営し、戦後から慈善事業へ莫大な資金を投じてきたという。口調には無駄がなく、日本語にも不自然な訛りがない。資料も整っており、財団の設立年、寄付実績、理事名簿、海外拠点の一覧まで用意されていた。「私の家は、代々資産の運用と慈善活動を両立してきました。祖父の代から、日本との縁も深いのです」男はそう言って微笑み、卓上の紅茶へ手を伸ばした。その動きで袖口が数センチ上がり、時計の文字盤がよく見える。玲は視線を止めたのは1秒にも満たない。それでも、針の形、インデックスの焼け、ケースの厚み、ラグの磨耗、ブレスレットの接続部分まで十分だった。話の途中で、男は暑いと言って帽子を脱いだ。濃い灰色のフェルトハットで、内側にはロンドンの老舗帽子店《ハロウェイ&クレイン》の金箔ロゴが入っている。卓の端へ置く際、裏地が僅かにめくれ、汗止め